湘南乃風「純恋歌」の歌詞を徹底的に考察する
10年ほど前に一世を風靡した歌がある。
その中でマイルドヤンキーな彼らはこう歌う。
「大貧民、負けてマジ切れ、それ見て笑って楽しいね」
不可解である。何が不可解かと言うと、主な理由は2点あげられる。
1.大貧民で負けた程度で、なぜ彼(歌の主人公がベタ惚れしている女性がマジ切れした可能性もある)はマジ切れしてしまったのか
2. 何故、彼がマジ切れしている一方で周囲は楽しいのか
1については、極端に彼が短気であるという筋もなくはないであろう。それにしても、大貧民で負けた程度でマジ切れ、それは本人もあとあと後悔するであろう大失態であることは明白である。
2については、何の仮説も寄せ付けないほど不可解である。
マイルドヤンキーを標榜している彼らであるから、マジ切れというのは実に凶暴な状態であると推測できる。それを見て笑って楽しいねというのは実に不可解であり、凡人にはもはや理解不能である。
このように、私が長年抱いてきた疑問は今日噴出することと相成った。
尚、この歌、純恋歌に潜む不可解な点は上記にとどまらない。
この機会にじっくり考察し、読者の諸君にその解釈をゆだねたいと思う。
歌詞をそのまま転載すると著作権に引っかかる恐れがあるので、適宜引用しながら進めていく。それでは参ろう。
まず彼(歌の主人公、以下彼)は歌の冒頭でこう供述している。
「はじめて一途になれたよ、夜空へ響け愛の歌」
この発言から我々は2つの事を知ることができる。
まず第一に、彼は元々浮気性であるということである。初めて一途になったという事実から、この点に間違いはないであろう。
そして第二に、愛の歌を夜空に響かせようとしているということである。昼ではなく、夜である。この表現によって彼は、夜の営みを心いっぱいに楽しみたいという意気込みを暗に示していると考えられる。最も、この点についてはあくまで筆者の見解であり、意見の分かれるところではあろう。
こうして彼の人間像が浮かび上がってくる。すなわち、「浮気性で、性欲が強い」ということである。非常に人間的で憎めないやつである。
次にまた衝撃的な展開が待っている。なんと、「大親友の彼女の連れが美味しいパスタを作ってくれる」のである。一目ぼれと直後に告白していることから、初対面であろう。
初対面でパスタをつくってもらうというシチュエーションは、我々堅気の人種にはほとんどあり得ないといって良い状況である。とはいえ、マイルドヤンキーという点を鑑みれば、これもそう奇怪な出来事ではないやもしれぬ。深い追及は避けることにしよう。
尚、この時作ったパスタが何パスタであったのかについては全く言及されておらず、想像に頼るほかない。
この次に起こるのが先に述べた大貧民マジ切れ事件である。詳しくは先ほどの記述を参照されたい。
このあと彼は、柄にもなくスキップしたりして彼女への愛を深めることになる。
その直後に彼はこう供述している。
「守りたい女って思った、初めて」
恐ろしい男である。浮気性だけでは飽き足りず、女性を守りたいと思ったことも彼はなかったのである。
ここで一つの仮説が浮かび上がってくる。それはすなわち、彼は極度のコミュ障で、まともに人間とコミュニケーションをとってこなかったという説である。
とすれば、一途になったのが初めてで、守りたいと思ったのが初めてであるという事も納得できる。
要するに彼は、初めて自分に優しくしてくれた女性に文字通りベタ惚れしたのである。益々シンパシーが湧いてくるではないか。
その後の供述から、彼は無事彼女と付き合うことになったことが見て取れる。心から祝福したい、コミュ障の恋の成就である。
しかしそんな我々の善意も、儚く打ち砕かれることになる。彼はこう述べている。
ケンカしたときは、「自分勝手に怒鳴りまくって、パチンコ屋に逃げ込み、景品の化粧品をもって謝りに行く」
筆者はもう我慢できない。断言しよう。彼はクズ人間である。
景品をもって謝るという行為にはかけらの誠意も感じられない。そもそもパチンコに負けたらどうするつもりであったのだろう。否、負けていたらこの歌は世に生まれなかったのかもしれない。
その後彼女との関係は冷えていき、一念発起した彼は行動を起こす。
会いに、会いにいくよ、、、会いに、、、と呟きながら。なんという執念であろう。
とまあ、さんざん彼の人間性について疑惑と批判の目を向けてきた訳であるが、そんな社会不適合者も過ちを繰り返し、最後には自分の愚かさに気づくことになる。
曲の後半、彼はこんな気づきを得ている。
「お前は俺のために、なのに俺は俺のため」
この歌詞を聞くと、筆者も胸にしみるものを感じずにはいられない。
自分勝手に振る舞い彼女に甘えきっていたという経験が、筆者にもある。
今思い出しても自分を恥じたくなるような、そんな思い出である。
我々は過ちを犯す。誰でも過ちからは目を背けたくなるものである。
自分から逃げて、逃げて、逃げ回り、益々具合が悪くなって、最後には取り返しがつかなくなる。
その時に初めて我々は、大切な何かに気付くのかもしれない。
それは恋愛においてもきっと同じである。
夜空に愛の歌を響かせようとした彼も、社会不適合者である自分と最後には向き合い、人間として大切な気づきを得るに至った。
我々は時に人を傷つける。しかし過ちから学ぶ姿勢さえあれば、何度でもやり直せる。
彼らはこの歌を通して、そう訴えているのではないか。