コミュ力=人間力ではない。コミュ力とは技術である
コミュニケーションとは難しいものである。
よかれと思って発した言葉が相手の顔をゆがめることがある。それが例え善意に満ちていたとしてもだ。
近頃ちまたで、コミュ力という言葉が乱用されるようになった。なにかあればコミュ力、ことあるごとにコミュ力である。コミュ力がない人種は「コミュ障」という、人を小ばかにしたような蔑称で呼ばれることに甘んじなければならない。
なんという事態であろうか。元来コミュ障の障という字は障害の障であり、その意は「世の中の大部分の人間にとって容易である生活上の行為に困難を生じる」ということであろう。
そしてこの言葉には、「コミュニケーションなどほとんどの人にとっては円滑にこなせて当たり前」というニュアンスがある。
果たして本当にそうであろうか。
コミュニケーションとは、誰にでも容易にできるほど単純なものであろうか。
否、私はそうは思わないのである。
私たちは、言葉というコミュニケーション・ツールを持たずに生まれてくる。喋ることができないから、泣きわめくことで周囲の大人の保護をうける。
原始的ではあるが、これも立派なコミュニケーションである。
赤ちゃんはうんこを漏らせば泣き、お腹がすけばさらに泣き、いないいないばあで笑う。この単純さに私たちは時に癒される。
このようなドストレートな意思伝達でも、ほとんどの赤ちゃんは立派に生を全うできているのである。
赤ちゃんが大人のようにコミュニケーションに悩むことはない。泣くべきか、笑うべきか迷った末で、「すみません、感情表現苦手なタイプなんで、、、」と申し訳なさそうに会釈する赤ちゃんはいない。
さらに言えば、コミュニケーションに悩んだ果てにうつ病に罹る赤ちゃんもいない。
ストレスでミルクが喉を通らない赤ちゃんもいない。
これこそ真に純粋なコミュニケーションと言えるであろう。なんの思惑もなく、感情のまま自然に表現された究極のコミュ力である。
ところが、私たち大人はどうであろうか。
どう言葉を選ぶべきか、毎日迷いながら暮らしている。感情の表現に思惑が加わるようになり、互いに心の裏の裏を読みあっている。
そうして四苦八苦して、男性諸君ならば強く共感いただけるであろうが、赤ちゃんならば当然のように吸っている女性の乳房を思いのまま吸うために、あの手この手を尽くして頑張っているわけである。
少し話が脱線したが、言いたいことは以下に集約される。
すなわち、大人同士のコミュニケーションとは本来難しいものであり、それは人間性や人格とは切り離して考えるべき技術であるということである。
我々は時に自分を責める。特に人間関係に関しての悩みはとても苦しい。
そして時に、円滑なコミュニケーションを取れない自分の人格を否定してしまう。
もし読者に心当たりがあれば、どうか安心してほしい。
なぜならば、コミュ力とは技術であり、人間性とは無関係だからである。
コミュ力は技術だ。慰めではない。事実である。
技術は、訓練によって伸ばせる。才能の関わる要素も勿論あるが、誰にでも伸ばせる。
私がその生き証人である。その元コミュ障っぷりはまた後日書くので、ここでは深く触れないことにする。
技術といっても、その中には段階がある。
例えば水泳であれば、まずは水に慣れることから始めるのがとっつきであろう。
水に入ること自体に恐怖感を感じる人もいるかもしれぬ。いうまでもなく、その人がまずやるべきは「とにかく自分の体を水中にさらし、慣れること」である。
同様にコミュニケーションにおける第一歩は、「自分を他人の前にさらけだすことに慣れる」ことである。この段階で苦しくなったほとんどの人は、自らにコミュ障の烙印を押してしまう。
そうなってはあまりに惜しい。この段階で我々はまだ、泳ぐことにチャレンジしてすらいないのだ。才能もくそもあったものではない。
ただ水に顔を浸すことを恐れ、その冷たさに体を震わし、こらえきれずに体を陸に引き上げてしまうのだ。
自分をさらけだす恐怖感が薄れたあとで初めて、我々はクロールや平泳ぎなどの泳ぎ方を習うことができる。
コミュニケーションも同様である。
まずはなるべく飾らない自分をさらけだす恐怖感に慣れ、そのあとで一つずつテクニックを習得していけばいい。
繰り返すが、この技術の上達の度合いはもちろん人によって異なる。しかし、たとえ上達が遅いとしても、それはあなたの人間性に問題があるということを意味するものではない。
水泳が下手だからといって、自分の人間性を責める人はいないだろう。
コミュニケーションだって、実は同じことなのである。
世の中のコミュ障よ、案ずることなかれ。
練習することで、我々はコミュ強になれる。