いいね!はやがて人類を滅ぼす。共に闘おう
人は誰もがホメられたい。ホメられて嫌な気持ちがする人はいない。
人はみな、ホメられるために生きているといっても過言ではない。
ホメることはどのような場面でも通用する、アトミック・ボムといえる。
飯を作ってもらったなら、提供者に美味しい!と伝える。
いい色をしたカーディガンを着た人に会ったなら、「季節感があるね」と持ち上げる。
東にデカ女がいれば「中身は繊細で優しいよね」と内面をほめ、
西にオタク男がいれば「自分を貫いてて逆にかっこいいね」とおだてる。
そうした人の「ホメ能力」はやがてコミュ力として認知され、自然と周りに人が集まってくる。ホメることはこれほどに有効なのである。
そのような傾向はインスタやフェイスブックを見ても明らかなことだ。楽しい写真をアップすることで、みんなから「いいね!」とホメられるのは嬉しい。
私にもかつて、いいね!と言われることで自分のアイデンティティーを確認していた時期があった。どこかで聞いた名言風の言葉をばれない程度に改ざんして、いいね!を生産しようとした時期もあった。ホメに飢えた男のむなしい努力である。
ところで、いいね!というシステムは人からホメられた量が数字として見えるという意味でなかなか末恐ろしいものがある。
数字化されたことで、私たちは自らのホメられ度を他人と明確に比較することができるようになった。これはスマホが普及する前にはなかなか無かったことである。
もちろん、学校のテストの点数や会社でもらう給料も、そのような「いいね!」が数値化されたものではある。
勉強を頑張った生徒はその努力や才能に応じて0点から100点のスケールでいいね!をもらうし、会社では利益を生み出した度合いに応じてお金という名のいいね!をもらう。
とすると、SNSでもらういいね!は一体どういった基準で与えられるのだろうか。
私の思うに、それは「リア充してんじゃん」という評価に応じて与えられる。
例えばインスタに毎日のようにリア充写真を投稿していいね!を量産している女子をよく見かけるが、彼女らの写真は確かに、やれ#友達の誕生日パーティ!だの、#彼氏と仲直りだのと、確かにリア充と判を押さざるを得ないようなものばかりである。
私たちはこうして、だまされてしまうのだ。
我々には誰しもリア充な瞬間があるし、非リア充な瞬間がある。
そして両者の比率は確かに、例えば美人女子大生と、冴えない中年サラリーマンでは異なるかもしれない。
しかし、とても充実した人生を送ってそうな人たちも、毎日友達の誕生日パーティでサプライズクラッカーをみんなで一斉に鳴らしているわけではないし、なんだかんだで大好きな彼氏と毎日ケンカ及び仲直りしているわけではない。
毎日下北沢で話題のパンケーキを食べているわけでもないし、毎日安定のイツメンと飲んでいるわけではない。
というより、毎日イツメンと飲んでいるというのはおそらく危険な状態であろう。
毎日イツメンと飲んでいるうちにイツメンが普通となり、それをあえてイツメン飲みと称することはなくなるであろう。むしろいつもと違うメンツのほうが異常となり、イツメンという言葉は「いつもと違うメンツ」という、本来と逆の意味でつかわれるようになるであろう。
そうなっては本末転倒である。
このように、いかにリア充に見えても、日常で営んでいる行為自体は誰もみなさほど変わらないのである。その内訳は、基本的に、食う・寝る・ヤるで占められているに決まっているのである。
かの有名な落語家、立川談志も生前にそう断言しているくらいである。
しかし現代に住む私たちにとっていつの間にか、「食う寝るヤる以上の何か」を人生に求めることが当たり前になってしまった。
そうしてその「何か」が確かに存在することを、私たちはいいね!によって互いに確認しあっているのである。
「俺たち・私たちの人生って意味があるよね!」と互いに顔を見合わせているのである。
なんという人間の悲しさだろう。
嘆くべきことに、このようにアップされたリア充写真にいいね!を押しながら、その作業の虚しさに私たちは内心「やだね、やだねったらやだね」と、氷川きよしさながらにイヤミ節を唄っているのである。
この負の循環をどうしても断ち切らねばならぬ。
自由からの逃走ならぬ、非リアからの逃走を食い止めねばならぬ。
人にとって、非リアとは生身の生活であり、愛すべき日常である。
そしてなにより、他人からの評価に縛られない自由がそこにはある。
そうした他愛もない、けれども小さなドラマに満ちた日々こそ、私たちは胸を張ってインスタにアップしなければならない。
私が近頃、無理してリア充な写真の投稿をすることを控え、非リアな写真の投稿に専念しているのはこのためである。
その写真の例をあげると以下の通りである。
・バイクで20分かけてわざわざ行ったラーメン屋が閉まっていた。
・近所の銭湯に、今では珍しい缶のポカリが売っていた。
・道路に真っ白なハトが鎮座しており、心をうたれた。
まさしく愛すべき日常たちである。そこには楽し気に微笑む顔など少しも映っていない。
しかし、このような非リア写真にこそ、人は安心感を覚えるのである。
「ああ、生きるとはこのくらいで十分なんだな」と。
読者の皆さんが少しでも非リアな写真をアップし、わずかないいね!とおおきな優しさをそこに創りだすことを祈る。
共に闘おう。