ネガティブな感情はウンコと同じである
私たちはみな毎日、朝目覚め、学校や仕事に向かい、飯を食い、ウンコをして生きている。これは人間ならば絶対的に歩むプロセスである。佐々木希も、武井咲も、上戸彩も、みな毎日、ある程度ウンコをして生きている。
ここで私は何も、女優の排泄シーンを想像することでそのギャップにエロスを感じようという理由でこんなことを話しているのではない。そのエロスは否定しないが、少なくとも、それだけではない。
私の言いたいのは、「怒りや妬みなどの感情は、ウンコと同じである」ということだ。我々は毎日の生活の中で、時に友に裏切られ、時に上司に叱られ、時に駐車違反の切符を切られたことに逆ギレしながら生きている。
そういった出来事は、人間がいわゆる「普通の生活」を送ろうとするならば、避けては通れないことである。非暴力主義をかかげたガンジーでさえ、たった5分の路注で切符を切られれば逆ギレするはずである。
そして、そういった感情は必ずなんらかの形で外に吐き出してあげる必要がある。
吐き出さなければ、やがて感情が死ぬ。
勘のいい読者はすでに気付いたであろう。
すなわち、「我々の中に感情が生まれ、それを処理する過程は、ウンコのそれとまったく同じである」ということだ。
人間は食わねば生きていけない。そして食ったものは、やがて出ていかなければいけない。これは世の摂理である。例え四次元空間にウンコを出したとしても、いずれその四次元空間はウンコで溢れかえることになる。入ったものは出ていかねばならないのだ。
我々は毎日、目ではスマホでニュースを読み、重苦しいビル群に圧倒され、見たくもない上司の顔を拝み、耳では都会の雑音にまみれ、大音量でイヤホンから音楽を聴き、体ではつり革につかまり、座り心地の悪いデスク椅子に腰を痛めながら暮らしている。
つまり、五感を通じて「飯を食っている」のである。
そしてそれらのほとんどは、ありあわせで作られたジャンクフードのような情報たちである。
そんな世界で、我々はどうしても感情のウンコ、すなわち怒りや妬み、不安や愚痴をこぼすことになる。それもまた世の摂理なのである。
リアルなウンコと感情のウンコ、これらのメカニズムはほとんど同じであると言っていい。
しかし大きな違いが一つだけある。
それは、「我々はリアルなウンコをどこで出すべきかよく知っているのにも関わらず、感情のウンコをどこでどう出すべきかよく知らない」ということだ。
ウンコをどこでどう出すべきかは、幼稚園児でも知っている。知ったうえで漏らすという過失はありうるが、知らないという子はまずほとんどいない。
それにも関わらず、感情のウンコをしっかり我慢し、出すべきところで、出すべき出し方で出すことを知っている人はあまりいない。これが問題なのである。
すなわち、他人のミスに対してむやみやたらに怒りをまき散らす人、常に不安について語らずにいられない人、愚痴を漏らさずにいられない人、こういった人たちはつまり、公然の場でウンコをまき散らしているのと同じだということだ。
もちろん、それは誰にでもありうることだ。どれだけ大人になっても、リアルなウンコを漏らすことはきっと誰にでもあるだろう。少なくとも僕はそう信じている。
同様に、感情のウンコを耐え切れずに漏らしてしまうことは、誰にだってある。
しかし厄介なのは、「説教」や「指導」、「相談」や「悩み」、時には「愛情の裏返し」といった仮面をかぶせて、そういったウンコをまき散らす人々である。
これまでの説明で理解していただけた通り、この種の人々はつまり、よかれと思って自らのウンコをまき散らしているのである。まさにホモ・サピエンスむき出しといった感じである。
そういった人たちとは距離をおくのがよい。
時には、あなたといる時にネガティブな感情ばかり吐き出す人もいるかもしれないが、そういう人はあなたを便器として使っているのだ。
何度も言うが、それは決して100%否定するべき行為ではない。人間である以上、そうなる理由が必ずあるはずだ。
とはいっても、もしあなたの友人にそうした人がいるのなら、黙っているわけにはいかない。こちらも負けじと、相手を便器代わりに使ってやるのがよい。そこから生じる友情もあろう。便利な友達ならぬ、便器の友達である。それも悪くはない。
さんざん述べたが、それでは、我々が公然の場で感情のウンコをまき散らさないためにはどうすればいいのであろうか。
答えは簡単である。
すなわち、「出すべきところで出せばいい」のである。
そもそもネガティブな感情とは、人を突き動かす原動力になるものだ。
例えば上司に怒鳴られた悔しさは見返してやるために努力する理由になるし、将来についての不安は今を頑張る理由になる。コンプレックスは自分を変えるための理由になるし、社会に対する不満はそれを自分の力で変えようとする理由になる。
感情のウンコは、うまく燃やせば燃料にもなりうるのである。大事なのは、その燃料で動き始めた自分自身を上手にあやつる操縦スキルである。
そして、耐え切れなくなったなら、先に述べた便器の友達や家族に、あるいは私のようにブログで吐き出せばよい。
この記事があなたにとって、感情のウンコをリサイクルする術を考えるきっかけになれば、これに勝る喜びはない。